【おからこ搗き】
16日午前9時30分から御越年式準備もかねて行われました。

・準備
  ○14日 大道具洗い

大道具は、おからこ搗き・お備え搗きに使われる、臼・杵・大のし台・大のし板などの道具です。平素、御本堂に保管されているので、それを取次によって堂童子宅に運んで洗い清められました。

・当日

1.餅米、2斗5升をとぐ。
2.竈のしつらえ。
3.のし台・のし板のしつらえ
  93×180cm、足高90cm、二枚ともに
  「弘化四年丁末十二月大吉辰堂童子用」と銘がある。
4.おからこ、ねねつぶをのせる棚の組み立て。
5.こね鉢、こね箸(金剛杖・白手細身のもの)。
6.折盆(中、三枚は、ねねつぶ用に藁を敷く)。
7.幣束・衣をたくし上げる藁・覆面(のり入れ紙で)。
8.米粉(7kg)。
9.わら草履(5足)。
10.風呂には注連を張り、洗い場にはむしろを敷く。
11.大豆(6合)を煎る。
12.新畳表 2枚(のし板の下に敷く)など

当日、朝、堂童子宅玄関に、若麻績中の家紋「木瓜鶴」の幕を巡らし、注連を張り、その中央に臼をすえるが、臼の下には、脱穀したわらを選ったものを、穂先の方を内側に円相に敷く。

・進行

午前8時頃、竈に火を入れ、入浴を当役、一臈僧、後住、又後住、道心の順に済ませる頃、餅米が蒸けて準備が整う。堂童子、一臈、後住、又後住の四人が黒衣の袖をわら束でたくし上げ、のり入れ紙の覆面をして、臼を囲んで合掌祈念、心経一巻黙読の後、「数多搗き」(あまたづき)にて二臼が搗かれました。搗き手の年齢差のためか、リズムは今一歩というところでしたが、餅米の品質の良さに助けられて、程良い仕上がりとなりました。これは、別室にしつらえられた、3尺×6尺の大のし板に運ばれて「おからこ」がつくられます。

おからこは、搗き上げられた餅を、卵の半分くらいにちぎられ、それを一同が取粉を混ぜて、小さなお飾りの形に丸めて、棚に一列5個ずつ、およそ150個作られました。後に搗かれた6臼の餅は、御越年式祝儀の雑煮や、正月行事中のために、お手伝いの北沢氏によって手際よく切り餅にのされました。

おからこ作り

棚に並べられた様子

「おからこ」の次は「ねねつぶ」作りとなる。
後住、又後住が、こね鉢に米粉適量(2斤)を入れて、向かい合い、合掌祈念の後、熱湯を注いで、金剛杖白手のこね箸で練り回した後、両手で適度の柔らかさに仕上げられます。これを一同、豆粒大に丸め、さらに指先で押してへこみを入れる。およそ300個程つくって藁を敷いた片木盆(3枚)に入れて棚に納めました。

後住と又後住

ねねつぶ

供物

このおからこ、ねねつぶは、煎り豆と御仏飯と一緒に、御越年式で、如来様、暗夜に境内に集まる諸精霊の供物として捧げられます。

余った練り粉で、余興に来年の干支「ヘビ」などを作ったが、他の干支に比して、なかなか難しく、グロテスクなものばかりでありました。

・直会

搗きたての餅を団子状に丸め、おろし大根にまぶした「からみ餅」が主食、焼き豆腐を12等分(2.5×4.5×2cm)に包丁を入れて醤油ダレで煮たものにゆず皮のみじん切りをふりかけたもの、および漬菜で行うのが慣例です。

今年は、あんにまぶした餅と、新しくクルミをまぶした餅が勝手元によって作られ、一同に振舞われましたが、お餅のきめの良さと味の良さにも助けられて、大変に好評でした。

からみ餅

漬菜

焼き豆腐に柚子がけ

午後1時、散会。
小休の後、御越年式準備となりました。

・お手伝いいただいた方々

野池さん、小林けいこちゃん・さっちゃんのお母さん、山条さん、北條さん、赤沼さん、曽山さん、山本氏、森田氏、鈴木氏、宮原氏、岡沢氏、北沢氏、斉藤氏、伊藤氏、今井氏、

・御奉納

もち米 新潟県西山

大沢様 ご夫妻

御越年式の供物としての「おからこ」と「ねねつぶ」は、大変に珍しいものですが、これについて、故・五来重氏は次のように述べています。

「おからこ」は本来、生米を粉に挽いて水で練る粢(しとぎ)団子である。善光寺では「おからこ」とは別に生米の粉を湯で練って小さく丸め「ねねつぶ」と称するけれども、これがもとの「おからこ」であった。これこそ「仏の正月」の仏(精霊)への供物であった。

日本人の庶民信仰では、死者の霊ははじめ「精霊」として仏教的供養をうけ、その鎮魂と浄化が完了すると「神」として神道的祭りをうける。この途中過程が「祖霊」である。精霊と祖霊のあいだの供物は、米でも麦でも、生のまま粉にして、水で練ったシトギ団子である。これが神の供物となれば「餅」になり、両方共通して「赤飯」が供せられる。

シトギは葬儀の枕団子や四十九の団子にもなる。この古態は、善光寺の御越年式の「おからこ」と「ねねつぶ」に残ったのである。……(中略)……「ねねつぶ」は、赤ん坊のようにかわいらしいのでいったのだろうが、これこそシトギである。

「からこ」は穀物で土穂ともいい、脱穀した殻をあつめて粉にはたいた土穂団子がこれにあたり、柳田国男翁も、これが最も古風な先祖の供物であったという。粗末な食物こそ未開時代の食料だったからである。

だんだん贅沢な食料をとるようになっても、先祖参りや祖霊供養にのこしたのはありがたいことであった。しかし、それが忘れられると、すべて白米の粉餅になってしまったのであるが、善光寺ではせめて一臼分だけシトギの「ねねつぶ」とし、このときの小餅全体を「おからこ」とよんで「暮れの霊祭り」に集まる精霊立ちに供したと思う。

『善光寺まいり』より


(C)2000. WAKAOMI.com. All Rights Reserved.
個人ページのリンクはフリーですが、無断転載は禁止します。
また、内容を利用される場合は、必ずご連絡下さい。