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善光寺臈僧 鏡善坊 若麻績 修英

銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも 「山上憶良」(万葉集)

わが子の健やかな育ちを願わぬ親はいないように、幼児児童を立派に育てることは、身分の上下を問わず、いつの世にも変わらぬ人間共通の願いであります。
七五三の行事は、毎年11月15日に子どもが成長の節目にあたる3才,5才,7才になったことを祝い、今後の健康と成長を願う通過儀礼の一つとして現在も盛んに行われています。
善光寺では、参詣者に配慮して今年は11月15日を中心に、10月16日から11月23日の38日間を、七五三健全育成祈願の日と定めて、特別祈願会を厳修しました。
期間中の境内は、親族、親の願いが込められたかわいい晴れ姿で賑わっていました。子どもたちが境内を元気に跳びまわる姿を拝見できるのは、誠に微笑ましく心強いものです。
期間中を通じて善光寺全体での七五三健全育成祈願の申込みは、五千人余ほどでありました。
七五三の行事が11月15日となった由来。
11月15日は、もと霜月の祭りとして、稲の収穫を終えたことを祝い、神に新米と神酒を供えて感謝する日でありました。従って七五三の祝いは、往古は吉日を選んで行われており、一定の日は定められていなかったようです。
この日と定めるようになったのには、次のような伝承があります。
徳川3代将軍家光(1604〜51慶長9〜慶安4)の四男徳松(後の五代将軍綱吉1646〜1709正保3〜宝永6、母は桂昌院)は身体が虚弱であったので、5才になった慶安3年(1650)11月15日に健康育成祈願を行ったのが始まりと伝えられています。
徳松は、これを機に不思議と丈夫になり成人したということもあって、一般庶民の間にも、子どもの健全育成祈願は11月15日にという風に広がっていったということです。
善光寺経蔵(重要文化財)に収蔵される「大般若波羅密多経600巻」。
経蔵には、江戸時代の黄檗宗の僧、宝蔵国師鉄眼(1630〜82寛永7〜天和2)が天和元年(1681)に、明の万歴版大蔵経を覆刻した6700巻余の黄檗版大蔵経(鉄眼版)が収蔵されています。
善光寺では、平成12年8月から翌13年8月まで1カ年余をかけて、明治32年以来100年ぶりに、長野県文化財保護協会長野支部副部長竹内幹雄氏等の肝入りで、経巻の虫干しが行われ、兼ねて収蔵書の調査をしたところ、輪蔵の中には、「黄檗版大蔵経」とは別に折り本の「大般若波羅密多経600巻」が納められており、経典の裏表紙に「奉為 公方家綱公 御息災延命 此施主 諸願成就所」と記され、奉納取次として「誓譽上人代 印」の奥書があって、つづいて大奥の女性と思われる52人の名が書きつづられているのが、新たに確認されました(下記の写真参照)。
誓譽智伝上人は、善光寺上人第111世、1630年(寛永7)晋山、1672年(寛文2)4月遷化されました。特に大奥とのご親交が深かったようです。(「坂井衡平 善光寺史」 971頁参照)
3代将軍家光の正室で4代家綱の母堂である本理院(延宝2年1672没72才)は、寛文2年(1662)、自分の代理として岡本内儀を善光寺に遣わして参詣しているので、遅くもこの時までに、病弱の身に加えて11才の若さで将軍となった、わが子家綱の行く末の健康を心配し、親交のあった誓譽智伝上人通じて、大般若波羅密多経600巻を奉納して息災延命を祈願したものと考えられるように思われます。
家綱は、4代将軍となって10年目21才になっておりました。
経蔵内の輪蔵
大般若経と裏表紙につづられた家綱公息災延命祈願
息災延命と善光寺如来
以上、今日一般に行われている七五三行事が、五代将軍綱吉五才の慶長3年(1650)11月15日に健康育成祈願をつとめた日をもって定められた由来、また綱吉の異母兄4代将軍家綱の息災延命のため、大般若波羅密多経600巻が善光寺上人111世、誓譽智伝上人を通じて善光寺に奉納されたことを述べました。
この2人の将軍の父である3代将軍家光は、初代将軍家康が慶長6年(1601)千石余の寺領寄進以来の善光寺崇信の因縁を引き継ぎ、善光寺に寛永13年(1636)に朱印状を寄せ、正保2年(1645)には御霊屋、御歳宮を修造しています。
しかし、家光は七五三の起源とされる慶安3年(1650)の翌年、慶安4年(1651)4月他界し、同年8月長男竹千代が若干11才で、4代将軍家綱として宣下を受けます。
4代家綱も生来病弱であったので、周囲の心配するところでありましたが、保科正之、大老酒井忠勝、老中松平信綱らに補佐されて幕府諸制度整備して、1680年(延宝8)40才で他界するまでの29年間の在任を果たし、家綱には嫡子がなかったため遺言して、34才の異母弟綱吉に5代将軍が引き継がれました。
家綱の将軍在任29年間は、徳川幕府260年15代の中、最長の11代家斉の50年間(1787〜1837)に次ぎ、5代綱吉(1680〜1709)、8代吉宗(1716〜1745)と並ぶ長期の政権でありました。
それは、母堂本理院をはじめ大奥女性たちの将軍家綱によせる息災延命の悲願をお受けいただいた、善光寺如来さまご加護の思し召しにもよるであろうとも考えられます。
誠に善光寺如来さまは、次代を担う大切な宝である子どもたちの、健康育成、息災の願いをかなえてくださる霊佛であり、善光寺は七五三詣での目的に合致した寺院といえるのであります。

ご家族お揃いで御参拝くださいますようお待ち申し上げております。

鳩舞う、七五三の境内
華やかに賑わう境内
回廊日だまりで仲良く
よい子になりますように
鳩さんたくさんお食べ
仲良く寄っておいで
お着物だと歩きにくいよ
ワァー!

徳川将軍家大奥廟所
本堂裏の大本願廟所の東側にある石玉垣に囲まれた一区画に、徳川家大奥関係の廟所があります。ここはもと年神堂のあった場所でしたが、明治初年の神仏分離令によって、明治12年城山に移されたので、翌13年大本願にあったものをここに移転修造されました。
下記の外に四基の墓碑があり、何れも善光寺と徳川家大奥との関係を示すものです。
本堂北の大奥廟所  (別紙「本蓮社おぼえ書き」参照)

本理院殿照誉圓光徹心大姉 (側面) 延宝二甲寅歳六月初八日
(本理院は鷹司家の出身で、元和9年12月3代将軍家光の御台所(正室)として江戸城大奥に入り、延宝2年6月72才で他界。)
また、善光寺の正月の堂童子行事の際、ご印文頂戴につかわれる宝印を収納する立派な箱があるが、これも本理院によって奉納されたものです。
紅玉院殿性誉法君清月
(本理院養女・甲府宰相綱重の御廉中・寛文13年他界)
麟祥院殿仁渕了義大禅定尼
(家光の乳母阿福、春日局。寛永20年65才で他界)
良雲院殿天誉寿清大姉 (側面) 寛永十四丁巳天 三月十二日
(家康の側室お竹)
徳川家と善光寺上人について
表記について現住職 鷹司誓玉上人さまは、ご自身の講演録「本蓮者おぼえ書」の中で、次のように述べておられます。
先に記した四代将軍家綱の母堂本理院と大奥女性方の奉納になる、善光寺経蔵に収蔵される「大般若波羅密多経600巻」とも関係あるので、ご了解を得て紹介させていただきます。
 江戸時代、諸大名に参勤交代の制があったことは良く知られていますが善光寺上人にも、三代将軍家光の代、すなわち智伝上人の頃から「三年に一度御礼年」と称する定例登城の儀があり、そのほかにも上人代替りの時に「継目御礼」、将軍家一族の慶弔に際しての「御きげん伺い」など、連年乃至は数年おきの場合もありましたが、登城して将軍のみならず御台所はじめ大奥の方々に、しばしば謁して居ります。
 そのための江戸宿坊として慶長六年、大本願第百九世智慶上人に谷中善光尼寺(慶安元年以降、五石の朱印)が与えられ元禄十六年江戸大火で焼失しましたが、今もなお「善光寺坂」の名称は残っています。
 その後、渋谷村青山に替地をうけて、百十世誓信上人が青山善光寺として再興され、百十七世誓円尼公が文久三年江戸を引揚げられるまでの約百五十年間、九代の善光寺上人が信州と江戸とを幾度も往復なされ、大本願と青山との両寺住職を兼帯されました。
 近世には各地諸大寺の出開帳が盛んで、中でも善光寺一光三尊如来、成田不動尊、京都嵯峨清涼寺釈迦堂の三ケ寺の江戸開帳は高名で、いつも多くの信者で賑わいました。
  出開帳の賑わい
 開帳仏や什宝類の拝観のみならず水茶屋や見世物小屋なども仮設され、一種の歓楽街のような観を呈する開帳場は、娯楽の少なかった当時の民衆にとって、信心の名を冠した大きな楽しみでもあったようです。
 江戸城大奥の女性たちも大いに関心をもち、元禄十四年、谷中感応寺において善光寺如来開帳が行われた時には、五代綱吉の生母・桂昌院はじめ大奥女性たちが参詣して、多くの金品を寄進して居ります。
 なお、徳川家一族に善光寺信仰が篤かったのは、初祖家康の生母お大の方(伝通院殿蓉誉)が、幼少の頃から善光寺如来を持仏としていられた為で、後年その持仏が伝通院の縁受院に祀られたのが小石川善光寺の起源で、増上寺と並んで伝通院は、徳川家の菩提寺として厚く遇されてきました。
 信州善光寺にも、家康の慶長六年以降、十四代家茂の万延元年まで、寺領千石の朱印が歴代将軍家より安堵されています。また近世善光寺上人には、諸大名あるいは公卿出身者が代々入寺嗣法されましたが、徳川家では二女秀忠の女・和子が後水尾天皇の中宮(後の東福門院)として入内し、三代家光の正室に五摂家の一つ鷹司家から孝子(後の本理院殿)を迎えるなど、春日局によって皇室公卿方との接近が図られ、十四代家茂の正室・和宮(後の静寛院宮)に至るまで、多くの女性が京都から大奥に入って居り、日常の生活慣習などにも相通ずる所が多かったと思われます。
  お城入りのことなど
 元禄五年、同十四年.元文五年、安永九年、天明三年の善光寺如来江戸開帳に際しては、その都度、成満(開帳完了)後に「お城入り」と称して、開帳仏や常灯明その他の霊宝類を奉持して、格式ある本供揃いの行列で登城し、上人のみは大奥に通り、御台所(時には将軍も)、嗣子や姫君はじめ大奥女性たち多数の拝礼にあたり、如来御厨子の開閉帳や御印文頂戴の儀などをとり行い、老女たちと親しく面談、種々の拝領ものがありました。
 青山善光寺には、お開帳の時のみならずおりにふれて、徳川一族の女性たちの年回などに際して、供養のため遺品の衣類や什物などが納められ、老女がたの参詣も頻繁でした。尼僧寺院と大奥と――内容実態は異りますが、世俗と隔絶された環境にあるもの同志、互いに親近感をもって結縁交際されたのでしょう。
  お霊屋と春日局の墓のこと
 徳川家の崇敬は信州大本願にも及び、崇源院(秀忠室)の霊牌や、本理院(家光正室)の御遺歯が納められたので、大本願では敷地内北側(現在、宝物殿や光明閣の位置)にお霊屋や墓所を建立しました。また今は明照殿の西側小庭に祀る石彫地蔵菩薩像は、本理院の供養のため天保三年に大奥の女性十八名の連名で建立されたものであります。
 お霊屋には、延宝年間以後たびたび大奥から修復金が寄進され、寛政の頃には専属の奉仕者(お霊屋僧、道心、中間、各一人ずつ)により手厚く護持されておりましたが、弘化四年の大地震の災害に倒壊したのちは再建されず、明治十三年に至って御本堂(善光寺金堂)北側の現在地に廟墓が建造されました。その浄域中には、本理院の遺歯をお納めした宝筺印塔を中心として左に良雲院(家康側室お竹)、右に紅玉院(二条家出身・本理院の養女で甲斐綱重の室)、その隣には、麟祥院(春日局)のお墓もあります。
 いまNHKの大河ドラマで放映中のこともあって関心がたかまり、徳川家との関係について質問を受けることも多いので、いささか小文を纏めてみました。(平成元年八月)

(「本蓮者おぼえ書」21頁〜24頁)

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