【堂童子帰坊】

 十六日、堂童子の正月行事も一切終わると、朝事後に白無垢、黒衣、折五条で後住、道心、寮坊を連れて大勧進に赴き、堂童子を恙なく勤仕できたことの挨拶を述べる。前期の堂童子袖切りのところで記したように杉原一帖を贈る。大本願でも同様である。次いで浄家一山へも挨拶を行って自坊へ帰る。

【お日待ち】

 これは定まった日はないが、堂童子明け後あまり日を経ないうちに行うのが例である。一に堂童子の大盤振舞いともいい、日が定まると堂童子は招待者に案内状を配る。

 当日午後四時頃から、招かれた人々は各威儀を正して堂童子の坊に集まる。坊では予め部屋割りを行い茶の接待を行うが、振舞いに先立って、院代が広間の床の間に設けられた斎壇で祈祷を行う。祈祷が終り着座すると、堂童子は三つ組盃を持って院代の前に進み御神酒を進める。次いで院代より堂童子に返盃があり、終って来客を広間に案内し一同着座する。正座に院代、左に台家臈僧、堂奉行、台家以下役人、堂番、寮坊、道心、右側に浄家関係が居並び、配膳がある。堂童子の挨拶の後、直ちに三つ組盃の上を院代に中を浄家一臈に呈し、続いて左右の全員に順次廻し、銚子(冷酒)にて進める。こうして上座から下座に一廻り渡ると、三つ組の上と中の盃は末座に置かれる。次いで堂童子は法衣をおとり下さいと進め、寺院方は法衣を脱いで堂服となる。次に石盃を一同に配り燗酒徳利を敷く。この時、鉢肴が出て、大盤肴が出て、酒宴となるが、機を見て浄家一臈がお末広というと、末座の上と下の盃が下座から再び全員を一巡して院代に戻り、院代から堂童子へと渡る。この時浄家一臈が千秋楽を謡い、終って法飯(胡麻、大根おろし、芹、胡桃、がやの実を微塵切りにした薬味を御飯にかけて、さらに昆布出しの汁をかけてお茶漬けのようにしたもの)、その後にこげ湯(小さなお握りを焦がしそれを湯桶に入れ湯を注いで茶の代りとしたもの)が出て、膳を引く。さらに一同に石盃が渡り酒宴はたけなわとなり、座布団の獅子舞いや綺麗所の舞踊など余興が出て大賑いが続く。

【お駒送り】

 お駒送りというのは、二月一日、善光寺北方の山麓にある駒弓神社の善光寺堂童子斎場で堂童子行事に用いた諸使用物を焼却する行事であって、その使用物の主なものは竈祈祷を始め堂童子自坊の注連、お煤払いの洒摩、御越年式の祭具、祈祷札等のすべてである。住古の言い伝えでは、諸使用物を焼却するために、あらかじめ駒弓神社から持参し本堂に祀ってあった駒形を、諸使用物と一緒に持参して、駒弓神社に送り返す習わしがあったようである。

 この日の堂童子、後住は御供所道心にこれ等を背負わせ、寮坊に酒、握飯、煮〆二重を持たせて駒弓神社に向う。神社方では神官と上松・滝句の総代と祭典係が堂童子等を迎える。斎場に至ると神官の清め祓等の後、堂童子の手により祭具を焼き、堂童子の祈念、般若心経の読誦によって焼却を行う。

 焼却を終えると、社殿に於いて、神官による祭が行われ、神官から堂童子、後住に神酒を進めて式を終る。

 続いて直会となり、肴は堂童子が神前に供えた煮〆で、これはお日待ちに出したものと同じにするのが古来からの定法という。最後に、堂童子が持参した握飯を取廻しとし、直会を終る。

【菖蒲渡し】

 菖蒲渡しは、堂童子が当役中使用した諸道具を後住へ引渡すことである。堂童子は年々中衆の輪番であって、その勤め方については殆どが口伝によっているが、諸道具は一定している。これ等諸道具は六月四日の菖蒲飾りまで堂童子のもとに保管され、翌五日に後住へ引継ぐことになっている。(善光寺の正月行事用具として、昭和41年11月1日、長野市文化財に指定されている)

 この菖蒲飾りというのは、堂童子が菖蒲によもぎを添えて、本尊の如来前へ二飾り、三卿前へは左右にそれぞれ二飾りを堂番に飾らせる。あたかも、五月五日の節句に行う民俗行事と同じである。

 菖蒲渡しは、堂童子が御供所道心に諸道具を運ばせ、引渡し目録によって現物を引合わせて渡すのである。その種類は三十余に及ぶ。こうして引渡し引継ぐのを菖蒲渡しといい、後住の当役への心用意がはじまる。新しい年の堂童子行事も、あと半年足らずに迫っているころである……。


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