胴 上 げ  東都歳時記三十八「商家の煤払い」より

(東都歳時記 四巻付録一巻 斉藤幸成(月岑)天保九年刊版本)

何方へ行て遊ばむすすはらひ    挙白
李白(俳人)
京都の人。従四位藤原義陳の息。六歳で近江の常明寺に入って得度した。僧名は松堂慧喬と称した。
文政四年(1807)常明寺の住職となった。俳諧を俳人の蘭更に学び、蔭凉園、キロ芋軒などと号した。
文政七年(1824)佐賀の高城寺の住職に任命されている。次いで京都十刹の一である嵯峨真如寺の住職に転じた。
 六〇歳のころは、自坊である常明寺の西南の高台にキロ芋軒と名付けた庵を結び、俳諧を楽しむ日々を過ごしている。天保六年(1835)二月、六三歳のとき、大本山東福寺の住職となった。
このとき、将軍家へ挨拶のために京都を立って江戸へ下っている。
七一歳、天保一四年(1843)六月、南禅寺の住職となり、僧階の最上位である紫衣上堂の人となった。人柄は清廉淡白で衆望が厚く、門人にもしたわれた。
俳人であるとともに、宗教界にも大きな足跡を残した。
弘化四年(1847)、十月三一日投、齢七五歳。
清沈帰愚国朝詩別裁
掃塵行   張自超

掃塵練日臘三七 細竹長竿風捲疾 歳々荒村守敝盧 家々浄掃迎新吉
掃遍瓦椽及四囲 甑中之塵凝不飛 朝来坐曝茅櫓下 垢面相逢猶苦飢

和漢風俗を同うするもおかし
本文の一三日の項は、次のように記している。

「煤払 貴賤多くは此日を用ゆ。大城の御煤払の例は寛永十七年庚辰十二月十三日に始りし由、前板の冊子に見へたり。家内に煤竹を入れ、すす餅を祝ふ」

これを読むと、煤払いの行事が十二月十三日に定着していたことがうかがえる。
煤払いとは、つまり大掃除のことであるが、寛永十七年(1640)以後、江戸城中では十二月十三日に煤払いをすることが定例となり、これをみならって、江戸の各藩邸、武家屋敷も煤払いをするようになり、町家も始めるようになったものらしい。

当日は、早朝から、奉公人たちはもとより、日ごろから出入りしている鳶の者、町内の若い衆たちが集まってくる。雨戸をあける、畳を上げて道ばたに積み上げる。棚の上のものや家財道具を片づける。毎年のことではあり、手伝いにくる人も、例年のこととて手順は馴れたもので、仕事はどんどん進んでいく。

しかし、その日の夕方までに終ればよいのであるから、余りの早仕舞も困るというわけで、適当に時の移るのに合わせてやったもののようである。掃除がひと通りすむと、主人を始め一同の胴上げがあり、蕎麦や鯨汁がふるまわれたりした。

鯨売りなじみと見えてとっつかまり 安い鯨肉はよく買われたものらしい
十三日柱から下女ひっばずし いやがっている下女まで胴上げした
この絵でも、胴上げをしている法被姿の一団があったり、そのそばでは、呉座を敷いて蕎麦を啜りこんでいる連中がいる。そうかと思うと、左手前では、一生けん命に掃除を続けているし、店の前では畳を片付けているようだ。

右の奥の方で、踏台に乗っている若者は、芝居の所作をして大見栄を切っている。
手前の一室にいるのは、この家の家族であろう。掃除が終わるまでは何をしようにも手が出せない。そうかといって町中が大掃除だから遊びにも出られない。冒頭の句は、この辺りの心理をよく突いている。出入りの人達は終れば祝儀の手拭などを貰って帰る。

俺だわえ吠えるなという十三日 真黒なので、愛犬も間違えた
 奉公人の場合は、晩になると、やはり祝儀の酒が出た。そして、この夜だけは早寝が許された。年少の店員はつかれ切っているので、喜んで寝入ってしまう。
 年かさの店長は、一度は寝床にもぐりこむものの、しばらくすると皆でどこかへ遊びに出掛ける。店の主人も大目にみたものであった。
 こうして、家の中がさっばりとした中で、あとは正月用品を整えるために、歳(年)の
市を待つばかりである。
(川田 壽 江戸風俗東都歳時記を読む H5 東京堂出版)より