和漢風俗を同うするもおかし
本文の一三日の項は、次のように記している。
「煤払 貴賤多くは此日を用ゆ。大城の御煤払の例は寛永十七年庚辰十二月十三日に始りし由、前板の冊子に見へたり。家内に煤竹を入れ、すす餅を祝ふ」
これを読むと、煤払いの行事が十二月十三日に定着していたことがうかがえる。
煤払いとは、つまり大掃除のことであるが、寛永十七年(1640)以後、江戸城中では十二月十三日に煤払いをすることが定例となり、これをみならって、江戸の各藩邸、武家屋敷も煤払いをするようになり、町家も始めるようになったものらしい。
当日は、早朝から、奉公人たちはもとより、日ごろから出入りしている鳶の者、町内の若い衆たちが集まってくる。雨戸をあける、畳を上げて道ばたに積み上げる。棚の上のものや家財道具を片づける。毎年のことではあり、手伝いにくる人も、例年のこととて手順は馴れたもので、仕事はどんどん進んでいく。
しかし、その日の夕方までに終ればよいのであるから、余りの早仕舞も困るというわけで、適当に時の移るのに合わせてやったもののようである。掃除がひと通りすむと、主人を始め一同の胴上げがあり、蕎麦や鯨汁がふるまわれたりした。
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