「善光寺と駒返橋」
      ー『長野』187号に依頼されて書きました。参考までに。

駒返橋については、板井衝平氏がその著『善光寺史』の中で「昔如来駒獄の神馬に乗りて来りしに、馬蹴石に入りて茲より馬を帰せしと。或は右につき堂童子年越しの故事に因ると云い、或は頼朝参詣の時駒を帰せし故と云い、或は往時彦神別神社境内の下馬橋なりなど諸説有り」と由来を紹介している。

何れも定かなことは不明であるが、ここでは善光寺如来守護社の一つであり、如来さまが現在地に来られたときに使われた馬を祀ったとされる駒獄駒弓神社に伝わる「お駒送り」(駒入り)の伝承を通して考察する。

駒獄駒弓神社の創立年は不詳、祭神は譽田別命(八幡)、長野市上松、善光寺平を見下ろす深い木立に囲まれた社殿は善光寺本堂に模して撞木造妻入で正面に唐破風をつけている。ここは十数年前の地附山大崩落現場であるが、堅固な岩盤の上に建立されていたためそれに守られて難を逃れたのは幸いである。

神がこの地上に降臨する場合、多くは馬に乗ってくるという信仰がある。各地の駒獄社にはそれを示す意味で石などに蹄をとめていたり、また長野市桐原の藁馬やお盆の胡瓜の精霊馬にも語り継がれているが、善光寺の場合はこれに如来さまと縁深い聖徳太子の黒駒の神秘性も加わって如来さまと神馬の関係は草創当時の善光寺信仰の姿を知る一つの手がかりとなり得ると思う。

善光寺には仏教以前の国有の民俗信仰と融合した善光寺正月行事「堂童子」儀式がある。一連の堂童子行事の中で最重要儀式は毎年十二月二の申の夜中に勤められる「如来御越年」の秘儀で、如来様はこの夜にお年越しされる伝えによって秘密裏に行われるが、儀式の中で主役である堂童子は、長い間別火による精神統一された黙祷の中で神ともなり、仏でもある姿に再生して、その年の五穀豊穣などを託宣するのであるが、この夜は現在でも境内周囲全域を暗黒にして静粛に過ごす習慣であるのは、駒獄神社を出発した神馬が善光寺に参籠する故事に由来している。

それは十二月二の申の夜、駒獄神社に安置される御神体黒駒のほか、赤・黄など四頭のの駒(木馬…うち一頭は盗難に遭い現在三頭…寸法は凡そ90×70cm位)のうち一頭の駒が神官に背負われて社殿を出て迂回して(古くは深田町は池沼であった)堀切橋近くの若宮に至り、そこで迎えに出た年番の駒獄神社氏子総代に引き継がれて寛慶寺東湯福川に沿って下り現在の城山小学校前を通って善光寺参道駒返橋に至り、橋を渡って本堂に向かったという(この慣わしは戦前まで残っていた)。

本堂に迎えられた駒は御越年の秘儀で神威を得た堂童子の参籠中、御三卿の間にある聖徳太子像と並んで安置されて諸行事の守護役を勤められたのであろう。

そして二月一日駒獄神社の祭日となり、これまで堂童子行事で用いた注連・御煤払いの洒磨などの祭具及び諸道具等のすべてを社殿前にある斎場で読経の中にお焚上げすると共に、本堂内に安置された駒も役目を終えて先とは逆の順路で、本堂から駒返橋を出て駒獄神社へお帰りになったのである。

以上、善光寺と駒返橋の関係を駒獄神社の駒の送迎に視点を置いて述べてみたが、渡来した初期の仏教が一種の呪術的信仰の形態で人々に受容されていった面があること、駒獄神社の祭神譽田別命は神仏習合時においては菩薩ともなり仏の守護神ともなる極めて神威高い神であることなども考えに入れると、今は小さな目立たない駒返橋(駒入橋)は、仏の世界と神の世界の文字通りの橋渡し役としての大役をになった橋であると考えることができるように思う。