お注連張り


善光寺堂童子にかかわる行事のうちで最も特異とされるのは如来の御越年で、俗には如来の御年越しともいう。この御越年は古来十二月の二の申(十二月中旬)の夜行うことになっているが、これに先立って種々用意が行われる。その一つが十二月朔日(ついたち)のお注連張りで、堂童子の実質的行事はこの日から始まり「別火」に入る。

 この日未明に後住に手伝わせて堂童子宅の門に注連縄を張るのでお注連縄張りという。当日はその祝儀を行い、如来前、大勧進、大本願以下山内の院坊はむろんのこと、関係の寺や親類等へも赤飯を配った。

 当日は、朝五時半、赤飯二重と塩包みに箸三膳分を道心に持たせ、お朝事(御開帳)前に本堂に上って本尊前に供え祈念を行う。坊に帰ると祝儀の赤飯振舞の呼使を中衆中へ廻らせる。

 中衆一同が当役の坊に参集すると、まず坊内の内仏に入り、臈僧を中心に本尊前に座し、礼拝の上臈僧の句頭(発声)で心経七巻を誦して法楽を行う。法楽が済むと別座敷に移り、祝儀振舞を行う。座位は上座に一臈、その向かいに二臈と法臈順に座し、ここで赤飯が出る。膳は、赤飯(小豆を入れて色付けなし)を盛ったお重に茶碗二個と箸三人分を添えて、二人に一膳の寄合膳である。次いで胡麻塩の器二つ(各匙を添う)と菜漬のお重二つが出る。胡麻塩は赤飯の上に匙(付け木を丸く切って短箸で挟んだもの)で振りかける。菜は膳に添えた余分の箸で挟み取り、膳の片隅に直かに取りおき、食する時は箸を用いず指でつまんで食する。菜は鯨尺二寸五分を定法とするという。

 赤飯が済むと膳を下げ、祝儀を行う。まず床の間に飾られた三つ組盃の丸山台と切り昆布を載せた三方及び銚子二個が上席へ出て、臈僧から堂童子へ一の盃を進め、昆布を懐紙に挟み肴におくる。堂童子はこれをうけ、次いで堂童子から臈僧に呈盃し昆布肴を添える。受け方は前と同じ。これが済むと二の盃、三の盃が上座から左右にまわり冷酒を順次戴く。次に燗酒が出て、上座から下座へ一献まわり、次いで二献目が上座からまわり、三献目は下座から逆に上座へまわり、臈僧に至って納まる。これを三種三献の儀と称し、祝儀の場合すべてこの定式によって行われる。

 三献の儀がすむと五品の煮染二重が出て、左右取廻し、続いて茶が出る。これで祝儀が終わる。

 なお、堂童子関係全ての場合、給仕は男子が威儀を正して行い、女子は携わらないのを定法としている。

【神酒備え】

 十一月の適当な日寺男に米粉を挽かせておく。およそ五升ぐらいという。十二月六日頃から造酒の用意にかかり、八日の晩参籠の時、白酒を錫の徳利一対に入れて家来に持たせて参堂し、九日の御朝事前にお三方に載せて如来前東寄りにそなえた。この日また御神酒配りといって衆徒臈僧、奉行(三寺中から選任の堂内取締役)、両寺執事へおよそ一合五勺づつ配り、仲間へは翌日およそ二合くらいづつ配る習わしであった。今はこの事は行われていない。

【仏名会】

古くは、陰暦12月15日より、後には19日より3日間、禁中及び諸寺院で仏名経を誦し、三世の諸仏の名号を唱えて罪障を懺悔する法会による。この日は、堂童子寺で御庚神像を掛け、法要をつとめる。堂童子はこの日より御越年の日まで本堂で泊り看経する。

【お松はやし】

 十二月十日の行事である。今は当日人足に山から伐り出させるが、明治以前は平柴(旧善光寺領)の人足の朝日山(旭山)から伐り出させた。当時の記録に依ると、十二月九日の朝食後中衆は当役の坊に集り、人足に一本松六本、枝松五本の伐り出しを命じ、善光寺町伝馬屋敷から萓を納めることとしていた。この朝当役は、明日は御松はやしである旨を寮房(御供所勤人)に命じて仲間へ触れさせた。

 十日朝、当役は使を以って仲間へ使を廻らせお松はやしに参集を促し、他方山見役に膳部をだし(お平、坪、汁、飯も付く)、燗酒が出て中割に白酒を出して接待し、平柴村の人足にも別席で振舞うを例とした。当役は、この朝水風呂をたて沐浴し、山見役のお松の検分が済むと、それぞれ付礼をして大勧進、大本願の両寺に納めさせた。

 仲間一同は打ち揃って(寮房とお供一人を連れて)大勧進に行き、門内に届けたお松(玄関前の松の木に結えさせておく)に到り、当役はその前に控え、後住と又後住(翌々年に担当する坊)が奥から持参して来た神酒と洗米をお松に注いでお清めを行い祈念する。

 これが済むと一同大勧進の富士の間(藤の間ともいう)に入る。富士の間には、床の正面に神酒(徳利二本)、右に洗米、左に切り昆布がお三方にのせて供えてあって、床に向かって上座に堂童子、その向合の左上座に院代(別当代)が着座し、堂童子の次に一臈、院代の次座に二臈とし、以下順に座す。

 院代が出座すると祝儀が行われる。まず堂童子が院代の前に進み、後住が三つ重ねの上盃に神酒を注ぐと、堂童子は三方ごと院代に呈し、済むと大勧進役人が上座から配膳を行う。次いで役人が院代以下へ冷酒一献を進め、一巡後皿物が出て、次に二献目も同様で酢物が出、三献目は下座から上座に及び院代に納る。院代への納盃を以って祝儀(三献の儀)が終る。終ると院代は床の間に備えておいた洗米と御初穂料包みを堂童子に贈る。堂童子はそれを戴いて、次の間に控えた寮房に下げ、持参の風呂敷に包み、一同退出する。

 続いて大本願へ赴く。ここでのお松のお清め祈念は大勧進と全く同じで、続いて祝儀も行う。但し、ここでは座次は右上座から一列に着座し、その向かい中央に供物が飾られている。配膳も堂童子から始まり最後に執事となる。ここでの祝儀も三種三献(燗酒)で、納盃は堂童子となる。終って洗米が堂童子に贈られるが初穂料は出ない。

【お竈祈祷】

 如来の御越年式(お年越し)の二、三日前に行う行事であるが、御越年が十二月の二の申の日であるため、毎年日取りが変る。釜祈祷は御越年のおからこや正月如来前へ供える御供(お飾り餅)を調達するための竈を清める加持祈祷である。古くは堂童子の坊では竈を新調する習わしであったが、今は日常使用の竈を使用するようになり、釜祈祷ともいっているが、本来はお竈の加持祈祷である。

 日が定まると、台家の院代奉行に祈祷方を依頼し、仲間中へ回章文を以て某日御竈祈祷致すにつき、粗酒差上げたいので、同日午後四時光来下されたい旨を告げる。

 祈祷用意として、お備え搗きに使用する竈、竈の前に神酒・油燈ゲ各二個づつと洗米を三方に載せて供え、手前に経机をすえ、香箱、香炉、清水を入れた仏器、御初穂包みを載せ、室の囲に屏風を立て廻し、天井から周囲に火打注連を垂らした縄注連をめぐらす。

 用意が調うと、三時頃寮房を使にして院代奉行に案内を出す。院代奉行は寮房に御加持用具を持たせ来ると、堂童子宅に赴く。

 祈祷は天台秘密の加持で四十分位で終り、「竈神祈祷之牘 敬白」と書いた牘を護摩の陷にかざし、呪印を行って祈祷を終る。祈祷札及び幣帛(ヘイハク)は竈の近く適当な所へ打ち付けておき、二月一日駒ヶ獄駒弓神社で焼くことになっている。祈祷が終ると祝儀が行われる。竈に供えた三方等を座敷の床の間に移し、祈祷師以下中衆一同も法臈順に座につき、堂童子から祈祷師に三つ組一の盃を呈して冷酒を進め、次いで祈祷師からの返盃がある。両度とも肴は昆布の舟冊切れである。

 続いて配膳があって、冷酒、吸い物の後、院代以下法衣を脱ぎ、堂童子から三つ組盃を院代に、二の盃を一臈に呈し、冷酒を座次に従って進め二巡して一献を終る。次に石盃が配られ、燗酒が出て直会となる。逐次三盃酢、大平、口取が出て、宴が盛んになると、「ざんざざんざ、浜松の音はざんざ」と方言のさんざ(もうたくさん)に蕎麦の方言ざんざを引っかけて、十分馳走にになった意を異口同音にはやし立てて蕎麦を要求すると、これに対し、「ざんざざんざ、今一の鳥居に参りた」と囃す。これは、飯縄高原にある戸隠神社の一の鳥居まで戸隠蕎麦が来たので到着も間もない、との意味を風流に言ったものである。次いで本膳となるが膳には中皿に焼味噌を中心にして、のり、ゆず、しょうが、くるみがつき、脇に大根おろし、これにそばの器と汁椀がつき、給仕が湯桶で注ぐ。こうして食事が済むと直会が終る。

おからこ搗き

 おから子とも書いた。古くから如来の御越年といって、十二月の中の申(第二の申)の日の夜、丑の刻に御越年の行事が行われる。この時如来に供えるおからこが当日堂童子等によって作られる。

 前日、御供所道心をして、院代及び仲間中へ廻らせ、明晩の御越年のことを触れ知らせる。勿論大勧進、大本願へも同様のことを知らせ、且つ出席方を申し入れる。また大本願から挟箱を借り来たり、御供所本尊前等に火切注連を張り、紙紐の覆面(七個位)、藁以下を用意し、洗米をして準備を整える。

 午前九時過ぎ中衆一同が黒衣、折五条でで当役の坊に参集すると、まず以下寮房まで風呂に入って沐浴する。餅の搗手は古くは当役、後住と堂照、堂明の四人であったというが、今は臈僧と当役、後住、又後住の四人が行う。場所には木瓜鶴の幕をめぐらし、注連縄を張り、搗手は紙の覆面をつけ、黒衣の袖を藁で後に結び、臼に向かって合掌祈念して杵を取って数多搗を行う。搗き上ると木鉢でおからこ作りの部屋に運ぶ。ここには新しい花莚(ござ)を敷き中央に大きな伸し板をおく。運び入れられた搗餅は臈僧の手で小さくちぎられ(卵の1/2大)、控の中衆等が取粉を使って手際よく丸め、小さなお飾りの形を作る。出来上ったものは堂童子専用の組立の木棚に奉書紙を敷きその上に並べる。二臼でおよそ二百個位作る。二臼目は後は手代りで、御越年式祝儀の雑煮に使う食餅を搗くことになっている。

 二臼が搗き終ると、坊内の一室で後住と又後住によりねねつぶ練りが始まる。大きな捏鉢を間に両人が相対し、合掌祈念の後、後住が櫃から米粉を鉢に移して湯釜の湯を注ぎ、勝軍木の木で作った捏箸で掻き廻して練り、さらに両手で捏廻し、片木盆にのせておからこ作りの部屋に運ばせる。仲間は片木上の練粉をちぎり取り練り直し、さらにこれを細かにちぎり豆粒大の球を掌上で作り、これを指先で圧して凹め、数多く作り上げ、片木に納めおからこの棚に納める。ねねつぶ作りが大体になると、余分の練粉で十二支に因んで新年の干支の動物などを作り出来不出来に興ずる。これは後で自坊へのみやげとする例である。おからこ、ねねつぶ作りが済むと、別に搗き上げた餅(丸め餅)を一同が揃って食すが、おろし大根で食するを例としている。

【御越年式】

 この行事は堂童子役の最も重要とされる行事で、堂童子を中心に中衆のみによって行われる、古来からの極秘の行事である。明治以前は本堂裏(現在の歴代上人廟)にあった「歳神堂」で行ったが、神仏分離令により取壊し以後は御供所で行っている。

 午後九時、堂童子は自坊から御供所に伺うが、玄関で切り火を行い、自坊の役人がつるべ燈灯を掲げて先頭に立ち、次に堂童子、おからこ等を入れたゆる輪を背負った寮房、御越年式用具を入れた挟箱を担いだ道心の順序で、途中仁王門裏面の三面大黒天と三宝荒神に祈念を行い、本堂向拝での祈念の後御供所に至る。この時本堂内外の燈火は一切消されることになっている。

 御供所にはいると越年行事の諸準備を手早く行い、御供所本尊の阿弥陀如来及び左側の大黒天の前へゆる輪以下諸器物を供え、燈明をかかげる。次いで本堂へ東口より入り、内陣、中々陣の扉を閉じ、本尊、三卿(善光、弥生の前、善佐)前に礼拝し、内陣東の結界の塔前にも香を立て、高座(礼盤)の西に座して心経読誦を行う。但しこれはいつも行う看経の仕方である。

 十一時過ぎ、仲間は色衣(威儀細)に中啓を携え袖炉を持参して御供所に参集する。十二時になると一同は持参の浄衣、袴に着替え頭巾(冠ともいう)を着用する。装束が済むとまず阿弥陀如来に対し堂童子を中心に座し、本尊前の油燈を残し他は全部消し、堂童子脇の蝋燭一本のみで、行事は名香を薫じながら極秘に無言のうちに行われる。行事ついては一切秘伝により執り行われる。

 御供所での秘事の後一同は本堂に向かう。中衆下座の伴僧がつるべ提燈を持って先案内となり、堂童子に続いておからこ、ねねつぶ、片木等を入れた背負子を背負った御供所道心の両脇に後住、又後住がつき、御神酒入箱、御仏餉箱、煎豆の入った桝(さや箱に入れてある)を持った各人が続く

 東昇降口から本堂内陣に入ると、後住、又後住に手伝わせて、如来仏供台に神酒と片木におからこ二つ、ねねつぶ五粒、煎豆十粒位と御飯少々を盛り、大片木にのせたもの五膳を本尊の前に供える。終ると堂童子は導師壇の右後に座し、中衆一同またその後に一列に座す。堂奉行は西側の経机に着座し、堂内での四門固め追儺の行法が始まる。まず大僧正入陣導師壇に登りおからこ加持を行い、心経が読誦され、七巻目頃堂童子は瑠璃檀と三卿の間の間に立ち、桝の煎豆を東、南、西、北の四方に三度づつまき、また南面して天と地に向って同様三度まき、終ると大僧正導師壇をおり退出する。次いで「四門固めの儀式」に移る。

 午前二時半頃、東北の昇降口から出て、一臈僧は御供所道心の背負う背負子からおからこ、ねねつぶを取り、仏飯、煎豆を添えた小片木を後住、又後住に渡し、堂童子はそれを受け取り、まず東方に早足で向かい、境内境の物の上や草むらまたは雪の下にこれを隠し供えて祈念を行う。同時に院代奉行は本堂回廊の背負子脇に立って錫杖を振り加持祈祷を行う。かくして、東、南、西、北の四方の固めを終ると一同本堂内陣に入り、院代奉行と堂童子は、中央導師壇拝敷にて心経三巻を誦して本堂内の行事が終る。この時堂童子は本尊前のお供えを下げて道心、堂番に持たせて一同行列にて御供所に帰る。

 御供所では少休の後、両寺の執事及び院代奉行が御供所に来ると、御越年の祝詞を堂童子に述べ、案内により正面上座の向かって右に堂童子、次に院代、大勧進・大本願の執事、下座右に中衆の一臈、二臈、左に三臈が座し、後は法臈順に座す。配膳があって、給仕は湯桶の汁を雑煮椀の蓋に注ぎ、各々椀から具を取り分けて食す。祝儀の雑煮は切餅三つと定まり、これに凍豆腐の斜切りに栗、椎茸、大根の煮込みとなっている。雑煮が済むと冷酒が出て三献の儀があって、煎茶を以って終る。終ると膳を引く。

 食事が済むと、堂童子と後住のほかは浄衣を脱ぎ色衣に衣替して座に帰る。次いで木盃を配り、給仕が燗酒を進め、肴として生大根の輪切り詰めのお重二つ、鯨尺二寸五分に切った菜漬のお重二つが出て、左上座に大根、同下座に菜漬、右側はその順に出て、酒は給仕の酌で肴は取廻しとし、受皿がないので懐紙にとり、指で食する。

 程合を見て、堂童子は後住を招き堂童子渡しの儀を行う。堂童子三つ組木盃をとって後住に進め、給仕が酌で冷酒を注ぎ、堂童子は大根、菜漬を懐紙に取り分け肴に後住に呈す。この時院代発声で謡曲難波の一節
「一花開くれば天下みな春なれや、よろづよのなお安全ぞめでたき」

と謡い、一同これに和す。次いで後住は冷酒を干して堂童子に返盃し、前と同様肴を呈す。かくして堂童子渡しが済むと後住も浄衣を脱ぐ。ここで一臈と二臈は、三つ組木盃の一つを大勧進執事に、一つを大本願執事に進め、肴を添える。その間に、当役堂童子は院代に盃と肴を進める。

 この事が済むと後は随意に飲酒する。時を見て、両執事から両臈僧に祝盃を進め肴を添えて返盃する。この時、院代からも堂童子に返盃がある。続いて大勧進執事の発声で謡曲高砂の一節千秋楽
「千秋楽は民を撫で、萬才楽には命を延ぶ。相生の松風颯々の声ぞ楽しむ」
を謡う。両執事が復座の後、頃合いを見て一同起立し、堂童子、院代、後住、又後住、大勧進・大本願両執事の順に胴上げを行い、御越年の締めくくりとする。この時鐘楼の梵鐘をつき、太鼓を鳴らし、御越年式の終ったことを告げる。

 院代及び両執事が退出すると、再び秘事を行い御供所の行事を終る。この後、中衆一同は賑やかに帰坊、途中、当役、後住、又後住の坊を訪れ祝言して引き上げる。後住は、直ちに本堂に入り看経を行ずる。


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