善光寺の御開帳

1. 目的
(1) 秘仏である本尊如来様の御身代わりとして、平生は善光寺の御宝庫に安置されている「前立御本尊」を七年目ごとに御本堂にお迎えし、参拝の信徒に御開扉・御回向し、如来さまとご縁を結んでもらう。

(2) 如来さまの永遠のお徳にふれて、ご先祖さまやお年寄りの幸せを思い、限りある私たちの人生を見極め安らぎとともに世の中の平和と繁栄を祈る。

(3) 仏都長野及び周辺地域の振興と活性(御開帳とともに発展してきた長野)(年表参照)
御開帳は、もとより秘仏本尊の信仰のありようを具体的に示す行事として、各寺社共に最も力を注いで開催される最大の宗教行事であるが、善光寺の御開帳は、先ずはじめに長野及び周辺地域より住民の総意として請願があり、善光寺がこれを受けて開催するという特色がある。
明治30年に長野が市制を施行して開催された明治33年の御開帳に、長野及び周辺の首長によって「御開帳共賛会」が結成されて、初代会長に鈴木小右衛門氏が就任、全国への宣伝と参詣者受入の為の活動を中心に、以降共賛会長には歴代市長が就任している。
戦後、新憲法の下、政教の分離に伴い名称も「御開帳奉賛会」と改めて、会長には長野商工会議所会頭が就任する習わしとなっている。

 下記は、平成9年の御開帳にあたり、長野商工会議所会頭から善光寺への請願文である。

平成7年8月18日

善光寺代表役員事務局長 殿

長野商工会議所会頭 神 津 昭 平

善光寺御開帳執行についての請願

法灯1400余年の歴史に輝く国宝善光寺が年を重ねて、益々ご隆盛の一途を辿りつつあります、まことに慶びに堪えません。
さて、善光寺の最大行事、前立本尊御開帳のご法儀は7年毎に執行の慣例であり平成9年はその年次にあたります。 全国数百万の信徒を迎え、法会を厳修し、萬霊の冥福を祈り、国民平和の長久と国運の隆昌を祈願することは、現在のわが国にとって極めて意義深いことと信じます。 さて、長期化する景気低迷にもかかわらず、当市は近年めざましい高速交通網の整備に伴い、増して広域から多くの参詣者が訪れるものと予想されます。
つきましては、次期御開帳執行の期日を早期に全国信徒に伝達をいたしたく併せて地元奉賛会を結成し、諸計画に遺憾なきを期するため速やかに次期御開帳執行の儀を貴寺においてご決定下されたく、地元住民の総意をもって請願いたします。

上記の請願を受けて、善光寺は、執行機関局議で検討立案し、決議機関代議委員会で決議、全山会に諮って、正式に執行が決定される。
このことから、善光寺御開帳には、長野及び周辺地域の振興と活性という大目標が、仏都長野ならではの手続き方法で継承されている事を知ることができる。

平成9年御開帳は、長野冬季オリンピックの前年にあたり、全通した長野道のアクセスも未完成で、長野新幹線は9年10月開通予定ということから、善光寺に対して混雑緩和とオリンピック以後の対策のためにと、9年10月以降またオリンピック以後にという打診が 内々にあった。 しかし、近隣では地域活性化のために一日も早い開催希望が圧倒的であること、明治以来7年目の春開催の慣例が定着しており、延期の場合は戸隠の式年祭や諏訪御柱祭など全国のイベント計画への影響が懸念されることを理由として、明治以来の伝統にしたがって粛々と執行すべく、平成9年開催となった経緯もある。
結果、この目標も予想を大幅に上回る成果をあげ、歴史に残る御開帳として成功を収めた。


2. 七年目ごとに開かれる盛儀
御開帳が七年目ごと、50日間開催を慣例とすることになったのは、明治15年の御開帳から。以来長野では、御開帳を周期として人生のことごとを記憶する習慣が残っている。

御開帳中の参拝は

1. 前立本尊の拝観

如来さまの永遠のお徳にふれて、ご先祖さまの追善供養の徳を積み、家内安全等の諸願成就を祈る。

2. ご印文頂戴

(1) 御印文は、善光寺如来の宝印三判(本師如来、剣印牛王、本師如来、宝印牛王、本師如来、往生牛王)のこと。

(2) 「仏の威徳神力は、全てのものより優れること牛王のごとし」(無量寿経下 威徳殊勝)

(3) 「牛王というは、仏または如来というに異なることなき称にて、牛王は護法と音韻近きより用い、剣は霊験に用いる」(芋井三宝記 上 宝印)

(4) 如来さまが、秘仏となられた孝徳天皇白雉五年(654)、お身代わりとして開山本田善光に授けられたと伝えられ、往古より、御開帳のときには、この宝印(ご印文)を天皇・大奥から一般庶民にいたるまで、頭上に頂戴することによって、如来さまのご利益にあずかり、罪障が消滅し、諸願成就の祈りが込められた善光寺第一の重宝である。

3. 大回向柱

(1) 回向柱は、「善の綱」によって「前立本尊」の中尊、阿弥陀如来の右手中指と結ばれているので、これに触れることによって、前立本尊とご縁を結ぶことができる。

(2) 回向柱の由来、インドの仏塔(stupa)への尊敬の表れに見られる。(如来の徳は天にもとどろくがごとし)

(3) 仏陀滅後、多くの弟子達によって、仏陀の教えを整理し体系化する結集がおこなわれ、その教えの偉大なことの象徴として、仏舎利・仏塔が建立される。(神聖化シンボル)

(4) 1世紀に入り、仏塔の仏殿彫刻の中に、仏陀の姿を具現しようとする傾向→ガンダーラ美術の影響→仏像へ

(5) 日本は木の文化の國と言われる。人々は木霊(こだま)と読んで、木に宿る精霊を信じ祀る習慣。

(6) 人間の生命とは比較にならないほどの長い年月、厳然と立つ樹木に生ずる素朴な宗教的感情。

(7) 先祖供養にその徳を讃えて塔姿を建てることにより、罪障消滅し悪趣を離れる功徳があると。→善光寺の回向柱=善光寺如来のお徳を象徴する、御開帳のシンボル。

(8) 回向柱は、代々松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される習わし。(現本堂は善光寺外護職であった松代藩が普請支配として建立されて以来の縁による )
現本堂は善光寺外護職であった松代藩が普請支配として建立されて以来の縁による
平成15年御開帳は、松代町西条、中村神社境内にある高さ30cm余・推定樹齢200年余の過ぎの大木が予定されている。
(前回平成9年は、同じく松代町豊栄 桑根神社社殿真後ろに聳える樹齢400年余・高さ25m・根回り3m50cmの赤松) 
寸法=本堂前 1尺5寸角(約45cm)、高さ33尺(約10m)
釈迦堂前1尺角(約30cm)、高さ21尺(約6m)

(9) 大回向柱の文字
南面 奉開龕前立本尊
東面 国家豊寧 萬姓快楽 佛日増輝 含霊普潤
西面 光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
北面 維時 平成十五年四月吉日 一山大衆敬白

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(10)
御開帳終了後の大回向柱
多くの参詣者の手に触れられて、如来様との結縁の大役を終えた大回向柱は、境内西に移されて土に帰るのを待つ。
現在、昭和30年御開帳の大回向柱からの8本が立っている。
4. 善の綱

(1) 如来さま・ご先祖さまと自分をつなぐ「命の綱」

(2) 回向柱→外陣は白晒し布。外陣→内陣は5色の糸。
内々陣→前立本尊中央阿弥陀如来中指に金糸で結ばれる。

(3) 五色:青黄赤青白黒の正色。極楽浄土荘厳の色

(4) 五色の糸:人々が臨終に阿弥陀仏のお手にかけられた五色の糸を往生者の手に掛け渡して、浄土に導かれることを願う臨終行儀は平安時代に大いに流行した。

今昔物語(15巻)横川ノ境妙往生セルコト「沐浴シテ浄キ衣着テ堂ニ入リテ、阿弥陀仏ノ御手ニ五色ノ糸ヲ付ケテ、ソレヲ引イテ西ニ向カヒ念仏ヲ唱フ。」

(5) 牛に引かれて善光寺参り……白布は善の綱との伝承

5. 戒壇巡り

(1) 戒壇巡りの「戒」は、邪念を払う義(諸悪莫作 衆善奉行)。「暗黒」は、来世の入り口、先祖の霊魂が充満する神聖な場を意味する。
暗黒の回廊を巡り、本尊如来の真下で如来の広大なお慈悲の懐に抱かれながら,経に説く右回り(仏礼拝の方法…詣如来 稽首仏足 右遶三匝 長跪合掌「無量寿経上」)で一周する。

途中、「極楽の鍵」にふれて如来さまと結縁することによって、一切の罪穢消滅の功徳を得て、魂が浄化と、未来善処に到る事が約束され、正しい信仰の道を目指すことが出来るという信仰(ご利益をいただく)。

(2) 右遶三匝(うにょうさんそう)
堯慧法師(1526〜1609)(足利義晴の猶子、高田専修寺初代門跡)

『剩さへ 本尊の瑠璃檀をめぐりき、まことに多劫の因縁浅からず覚えて、歓喜の涙せきあえず云々』(「善光寺紀行」)……往昔、仰信の人々信心歓喜して、直に如来宝座を回拝した例。(当時は暗黒の戒壇めぐりは無かった?)

(3) 昭和30年代頃までの参拝者は、宿坊などで経帷子白い鼻緒のわら草履と白木の数珠を求め、それをつけて、一同南無阿弥陀仏と唱えながら巡っていた。
その時使った経帷子草履と数珠は、自分の冥土への旅立ちの際使われたのであり、今も、納棺の折には、葬儀社によって模造のものが金剛杖・帷子を加えて、遺体と共に納められる。

江戸出開帳の繁盛と善光寺信仰の伝播

1. 文政三年「六月朔日より、本所回向院において、信州善光寺如来の出開帳、参詣群集前代未聞のことは、人々の知る処なれば、今更いふもくだくだし。」平賀源内「菩提樹之弁」

2. 文政三年(1820)「六月朔日より、回向院にて信州善光寺如来開帳、両国橋辺見せ物多く出る。…回向院境内 表門際に貝細工,同裏門際に瀬戸物細工、竹細工と文覚荒行人形の合併興行、東両国に笊細工、ギヤマン細工…西両国で力持ちや女曲馬の見せ物など」(朝倉無声「見せ物研究」、比留間尚「江戸の開帳」)

3. 安永七(1778)丁酉六月朔日より本所回向院にて善光寺開帳あり。大いに群集す。時の人申しけるは、参詣の人数あらまし積り、両国橋長さ九十九間、幅三間、此坪三百七十九坪、ただし一坪六人立に積り、人数凡千六百七十四人、一時に積り二十三里二十七町、人数合五十三万四千六百人、橋の上積り二つ割、参詣計り二十六万七千三百人、右人数一人に付散銭三文宛に積り、一日八百三十五貫三百十二文、此金百四十四両と銭百十二文なりと。……右六十日参詣人数〆千六百三万八千人也。叉六十日散銭二万千六百三両と三百五十文也。叉六十日一人前五十文遣ひて十四萬四千十九両一分と百二十四文なり。叉六十日之間酒五勺積りにして酒八千九十石、此樽数二万二千九百十一樽と一斗五升なり。代金二萬四十七両二分なり。但壱樽に付金三分二朱に積り、惣〆金十八万五千六百六十九両三分二朱と壱貫七十二文なり。斯様に日々金銀の集まる事、誠に賑わふ江戸の印なり。(大田覃「半日閑話」巻24)

4. 「今日より両国回向院に於いて信州善光寺如来開帳、一國の人狂せしが如く、参詣群参おびただし。夜深更より高提灯を燃し連れて参るもの大念仏を唱ふ。後公より禁ず。両国広小路に見世物に鬼娘出る。大いに評判あり。橋向かふにも叉似而非物出来て是叉はやる。鬼娘伝出る。…」(同上 巻14)

5. 元禄5年(1692)回向院で6月5日から60日間の開帳開催予定を予想以上の参詣者があり、55日間で切り上げる。(三都開帳日記)
八月四日桂昌院登城。如来江戸城三の丸に入り参拝結縁。厨子新造料百両寄進。

等々、江戸城中や禁中への請待は、徳川政権下の武家・商人・農民に、将軍さまや天子さまも親しく拝まれた仏さまというので一層、信仰の度を増したであろうし、今まで遠隔の地で、親しく拝する事の出来なかった一般庶民も、親しく結縁できた功績は大きい。