---堂童子について---

 信濃善光寺の創立以来縁起については、いろいろな説が伝えられているが、その創建は、善光寺の元の本堂跡(元善町付近)から出土する古瓦によって、七世紀後半から八世紀極く初め頃には瓦葺きの建物の寺として存在したことが明らかである。したがって、善光寺には古い仏教法儀が行われてきたのであろうが、時代の移り変わりとともに変改があって、伝統的法儀そのまま今に伝えられているものは少ないようであるが、そのうちで、今もって古式にのっとって行われている行事のひとつが「堂童子行事」である。

 この行事の歴史は、同寺のたびたびの炎上によってその資料を欠き、明らかではないが、江戸時代初期の寛永二十年(1643)二月大本願上人から幕府寺社奉行に差し出した訴状のうちに、堂童子行事が行われていたことがみえ、元禄5年(1692)に書き上げた『善光寺惣目録』中の『大勧進分高辻目録』に堂童子免四石八斗とみえ、また同じく九年(1696)七月、輪王寺宮が大勧進、大本願に下した裁許の文中に、御印文の儀、常々は先規の如く堂童子執り行うべしなどとみえていて、堂童子の行事が古くから行われていたことは明らかである。

 輪王寺宮の裁許状でもうかがわれるが、善光寺堂童子は古来善光寺三寺の中衆(浄土宗十五坊)が行ってきたことが明らかで、これについて、享保九年(1724)に成った『信府統記』は、善光寺年宮の条に「本堂ノウシロニアリ、極月申ノ日夜半ニ毎歳遷宮アリ、青面金剛ニ化シテ御年ヲトラセタマフトナリ、神道ノ源秘儀アリトナリ、役者十五人執行之其外ハ三山ノ僧徒モシル事ナシトナリ、此夜僧俗ノ家トモニ火ヲシメシ、騒動ヲ制ストナリ、モトヨリ遷宮ノ時ハ見ル事ナシトナリ」と記し、また天保五年(1834)に成った『信濃奇勝録』には、本堂の後に立つ年越宮は八幡宮を祀ると云うとし、「毎年十二月申日夜半に遷宮あり、俗説に八幡宮は本地阿弥陀如来にて此夜は如来八幡宮となりて年をとらせ給ふと云伝ふ、中衆十五坊の内、二坊は臈僧とて除き、十三坊にて輪番に此事を勤む、是をドウドウシと云」と記して、この行事は中衆十五坊によって行ってきたことを述べている。

 また、天保頃、岩下桜園(貞融)はその著『芋井三宝記』にこの行事について種々考証を行っているが、美濃の人豊田利忠(康園)の著『善光寺道名所図絵』にこの行事の次第を次のように記している。

今も如来御越年の規式には麻の浄衣を着す{是を神衣といふ}、如来の御年男は中衆にて勤む、ただし堂照坊、堂明坊は此役を除き、十三人年番にてひとりずつ御年男{これを堂童子といふ}を勤む、例年十二月二月の申の御年越也、其夜並びに除夜より正月十五日迄白麻の浄衣、袴、同かふり物{引立鳥帽子のごとし}、此役に当たる人は一ヶ年潔斎にて、湯福、妻科、武井{是を善光寺三社といふ}の三社へ日参、飯縄山、戸隠山へは月参なり、翌年の御年男へ今年の堂童子より送り物あり、大根にて陽根、陰根の形を作りて二折に入て贈之、

と記し、さらに年中行事の項には、

十二月朔日より御年男清火、本堂に参籠、同日七五三縄張、中衆残らず御年男の坊に参会して祝儀あり、赤飯を惣寺中へ配る(中略)同九日御年男より濁酒の御堂へ献備、同十日松はやしの祝儀有、大門町の伝馬役として百姓十人門飾の松並餅搗の薪、牛王杖等を御年男の坊へ納る、同二十一日女人禁制にて御餅搗、鏡五飾を取、御年男の内にしめ(注連)を張置、除夜に至て御堂へかざり、正月八日に下る、十二月二の申の日、夜に入、御年宮に於て如来御年越の規式{御年男浄衣を着す、丑の刻也}、秘事なるに依て其行ひ知がたし、但備物は一尺角の折敷に小片木三枚を入れ、一枚に餅二つ、御飯、白豆煎、おからこ等四品づつ盛て供ふ、四門へも二膳宛供ふるなり、今日駒が獄{本堂より一里余、艮の山也}駒弓の宮より神主木馬を持参する也、是をお駒迎といふ、今日暮六時限定念仏も時の鐘も停止、山内人払也、此式寅の刻に畢て、勤の鉦鳴を相図に諸事解に成る也、同二十八日御堂煤納、御年男、奉行両人にて執行ふ、箒は竹に藁を結ひ、松と注連を付る、済で後箒を別当所へ贈る、除夜より正月十五日迄御年男浄衣{神衣共いふ}着用、御堂に詰切、同十六日に退出、除夜子の刻別当所の名代並に三寺中惣出仕、開帳法会あり、依之、元朝には開帳なし、御供銘々へ配当あり、{朝拝の事は見前}除夜より正月十五日迄御堂其外の諸鍵とも堂童子の項にて、諸事一人のはからひ也、門飾の松竹は御年男の門計り正月晦日迄其儘飾置、二月朔日お駒送りとて木馬を駒が獄へ送りゆく時、御年男の門松竹も駒弓の神前にて焚捨て、祭礼あり、堂童子の勤是迄なり、

と記していて、江戸時代末頃の堂童子行事のあらましを知ることができる。

『芋井三宝記』や『善光寺道名所図絵』とは別に、堂童子行事を行って来た中衆の間の語り伝えを記録した『堂童子絵巻』にはそのことを次のように述べている。長文であるが行事の性格を知るに便宜があるので記してみる。

当寺に伝ハる堂童子と言ふハ、開基善光卿以来若麻績氏が専任する香華、燈明、仏餉、茶湯等、檀越として如来に奉仕し来る所の常随給仕の当番役を云ふ、
仰々若麻績氏一族を古来世に如来御身附と称し、古文書類中ニハ如来譜代由緒の者等と称せられたるハ、蓋し善光寺創草以前、檀越としての善光卿夫子が我が家に於て恭敬し奉りたる如来を「宅ヲ改メテ寺トナシ」とある如く、住宅をその儘如来堂となし、信者の崇敬に応へ、次いで善光寺と称して恭礼、守護の為尼、法師等の出入するに及び善光卿の子孫とその区別を判然し、由緒ある人々なる事を伝えんがために、世に称せられたるもの、即ち如来御身附であり、如来御譜代衆であり、燈明衆である、時に中衆とも称し、又如来の忠僧と記されたるもあり、何れも如来に深き契のある一族にして、御堂の主ともなるべき人の由を伝へたる異名の数々なりと言ふ、

実に此の一族ハ善光卿以来血統相続して、他家より養子することなく、代々世襲し、専ら如来堂の奉仕に余念なく、如来恭敬の事をものすれバ、かかる異名のあるも宜べなるべし、

扨て如来恭敬守護の任を輪番に専らするに及び、その常詰の当番役(その年に行事を担当する坊)を堂童子となむ称したりと云ふ、因みに堂童子中には、大行事御越年の祭事、御印文頂戴の儀式等家中相伝の秘事規式あり、前後三ヶ年に渡る役儀である、されバ当役者ハ別火を行じ、持戒清浄に身口意を堅持し、金堂に参籠し、又諸社に月参、年参等をなして外護を祈り、満行の無諸障碍を祈念して行ずる程である、されハ御維新迄ハ「おからこ」と言ひて、町家の由緒ある者へハ配るを慣例とせられたれど、中絶したるはまことに惜しきことなりと古老は語る、今も尚此の御供箱をおからこ箱と言ふ、

御越年の式は十二月二の申日の夜丑の刻に執り行ハるる祭事にして、祭式ハ若麻績家に相伝せらるる秘事にして、家督相続者のみに直伝相承せらるるものにして、窺ひ知ることを得ずと雖ども、そのさまのいとも畏き事ハ知られぬ、蓋し此の祭事を司る堂童子ハ前年の御歳冬の当夜より、持戒清浄に別火精進して金堂に参籠し、祭事に当たるものにして、実に厳かなる行事である、午後六時入相ひ後ハ、定念仏も時の鐘も寺中は一切の鐘を打たず、四門を閉ざし、山内人払ひし、町人は戸をおろし、往来せず、いみじう謹み、今ハなけれども所司は寺中を警護したりと伝ふ、此の式寅の刻に了る、勤めの鐘を合図に諸事解となり、わが子に逢ふが如く待ち遠しく、急ぎ参詣に走る也、

扨て、この祭事中に笹事あり、堂童子当役より後住役(翌年に担当する坊)への引継の盃事に、「一花ひらくれバ天下皆春なれや、万代の猶安全ぞめでたき」と云ふを謡ひ、御祝儀とて胴上げをするなど、まことに古風なる儀式である、当夜の御譜代衆一同ハ、各自坊に於て斎戒沐浴し、大衣に改め浄衣を用意して、木造の太刀をはきたる小者を従え、籠灯燈に道を照らして十時の時を聞いて三々五々出仕するのである、

御式に当てらるる御堂は注連をめぐらし、祭事にもささ事にも堂童子を主座にし、堂照堂明之につづいて座す、取さかなハ生大根の塩ふり二重、漬菜二重と云ふ珍しき献立、盃には二の碗を用ひ、取さかなのとりやりにハ懐紙を用ふるなど、ひなびたる趣向ならずや、

以上が善光寺堂童子の概要である。その特色は種々あるが、この行事が善光寺山内にある天台宗(台家あるいは衆徒という)、浄土宗(浄家あるいは中衆という、中衆の間では仲間ともいった)、時宗(妻戸という)三寺中の中衆と称する若麻績家一族のみによって相伝されて来た行事であることである。堂童子というものは、古くから南都諸寺に於いて斎戒等におかれた役で、『江次第抄』には花筥(はなばこ)を賦り、取り収める役といい、『諸寺供養部類』にその名が見え、『アイノウ抄』には顕密の勅会に蔵人並びに諸大夫の花筥を取るを堂童子というとしている。善光寺堂童子もそれ等との関係を考えられる点はあるが、それ等と全く異なる点も多い。

         堂  童  子

「今昔物語」巻十一 

天智天皇造薬師寺語第十七(前略)其寺ノ内ニハ止事無キ僧ナレドモ入ル事ナシ。只、堂童子トテ俗ナム入テ仏供・燈明奉ル。止事無ト語リ伝ヘタルトヤ。

巻十二

薬師寺ノ金堂焼、不焼金堂語第二十此ノ寺ノ金堂ニハ昔ヨリ内陣ニ人入ル事無シ。只堂ノ預ノ俗三人、精浄ニシテ旬ヲ替テ各十日ノ間入ル。其ノ外ニハ一生不犯ノ僧ナレドモ入ル事無シ。昔浄行ノ僧有テ、「我レ、此ノ三業二犯セル所無シ、何ゾ不入ザラムト」思テ入ケレバ、俄戸閉テ入ル事不得ズシテ返出二ケリ。実ニ此薬師ノ像、世ニ難有霊験在マス仏也トナム御語リ伝ヘタルトヤ。

 薬師寺金堂本尊薬師如来座像は、日本古代彫刻を代表する仏像であるが、ここに述べられているように、「堂の預の俗人」…堂童子のみが内陣に入ることが出来た。関白藤原道長が参詣したとき、堂中拝礼の希望をもったが、たちまち猛風が扉を閉ざし、ついには果たせなかったという古老伝が、『七大寺巡礼私記』(保延六年一一四〇 大江親道)に収録されている。

 薬師寺では、享禄の兵火(一五二八)で金堂が炎上するまで内陣には堂童子しか入らないという風習は守られていたらしい。また、薬師寺では現在も修二会が行われている。修二会では堂童子は金堂内陣の本尊背後の井戸からお香水を汲み上げ、加持された香水を参拝者に分かち与える。或いは結願の日に、それまで本尊の光背裏、香水の上方に安置され加持されてきた牛王宝印を、満行を迎えた練行衆の額に押していくと
報告されている。

 仏堂や内陣は人が入れない神聖な空間に入ることができたのが堂童子であった。堂童子は一般に寺院近郷の住民がその任に当たっていた。僧籍を持たずに、仏堂の清掃や香華で供養にあたり、或いは法会の進行にかかわる労役奉仕を行った。しかし、薬師寺修二会の役割からわかるように、単なる労役奉仕者としてのみではなく、内陣(聖域)と外部(俗)を仲立ちする重要な役割を果たしている。

 聖と俗との宗教的媒介者……神仏の使いとしての性格をもっていた。その為壮年であっても童子と呼ばれる。 

《西瀬英紀 「薬師寺修二会の存続基盤」芸能史研究第七六…毎日新聞「秘仏」より》


(C)2000. WAKAOMI.com. All Rights Reserved.
個人ページのリンクはフリーですが、無断転載は禁止します。
また、内容を利用される場合は、必ずご連絡下さい。